傷めつけられてもいいから
お前の荷物を手伝うよ、理由? 決まっているだろう
そんなの、お前が――
029:ざわめきが耳の奥で響いている、今もずっと
ラジオの無線機のようにザァザァと耳の奥深くが鳴りさざめく。周波数のまったく合わないそれは葵の神経を苛立たせた。おおらかとか大雑把とかでくくられがちな葵であるが写真機と言う精密機器も扱えるくらいには器用だ。ラジオの周波数ならあわせてやればいい。だが脳裏で絶えまなく強弱をつけて響く音がくぐもって少しも協力的ではない。耳の穴を指で掘っても首を傾げるようにしてこめかみを叩いても何の変化もない。ただ葵の奥深くでザァザァと音が鳴っている。水も埃もなにもないはずなのになんだかもどかしい。海の近い港湾地区であれば小波の音が常にしている。だがそれとは明確に違うと葵の本能が警鐘を鳴らす。あぁもう、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
葵は乱暴に服を着崩すとふらふらと路地裏へ入り込む。本業の通達は今のところなく、それは数少ない葵の自由時間でもある。深いスリットの女性がしなだれかかる。葵は胸の間へ紙幣を二枚突っ込むとそのまま唇を貪った。女も乗り気で背を反らして喉を鳴らす。スリットはさらに深く割れて膨張の予兆を窺わせる生白い脚があらわになる。葛とは違うなぁ。葛も肌が白いがそれは驚くほど彩り豊かだ。平素は白磁のように冷たく脆いくせにひとたび熱を帯びれば流動するかのように息づいた。
それを考えた途端に耳鳴りが強くなる。ザァザァザァザァザァ。女のいう言葉が判らない。耳に入らない。聞こえない。仕草から察するにもっと金をよこせと言っている。葵は女を突き飛ばした。ちょうどよく葵もこの女に面倒さを感じていたところだ。欲を発散すれば治るかと思った耳の奥のざわめきはひどくなるばかりだ。
「うるさいな、もういいよ。こっちだって用無しだ。別口を探しなよ」
女は大陸の現地語で葵を口汚く罵ってから路地の闇へ消えていく。隠しから煙草を出して火をつける。役目を終えて消火された燐寸を捨てて白い煙を口から吐いた。太さも通しもついている正規品だ。路地裏で売られる煙草はそれぞれに太さが不揃いで中身の量もまちまち。ひどい時にはつけてすくに中身の香草が燃え尽きてしまう。
「兄さん、あんたずいぶんひどい野郎だなぁ」
ぴく、と葵の神経が張り詰めた。囲まれている。視界の片隅に先程の女が見えてだいたいの事情を察する。美人局に引っかかったかと迂闊さを後悔した。ざわざわざわ、と耳の奥がむずがゆい。男どもが鬱陶しい。諍いをさっさと終わらせて、葵はこの耳鳴りをどうにかしたかった。耳を塞ぐように抑えてうずくまる。もはや葵の脳裏を占めるのは耳鳴りだけだ。それは振動さえ帯びて脳を震わせて酔ったかのように視界が揺らぐ。どふ、と葵の横腹に靴先がめり込んだ。蹴り飛ばされた先で葵は激しく噎せた。溢れた唾液が細い頤を汚す。不規則で不安を覚えた刹那その場に嘔吐する。急所に入ってしまったのか、痺れのような痛みが引かない。
「人の女だからよ、使用料くらい払ってもらわねぇとさ」
ザァザァザァザァザァザァ。うるさい。うるさいうるさいうるさい。止めろ。この音を声を振動を呼吸を!
葵の纏う空気が変わる。乱雑にも見える肉桂色の短髪の毛先がふわりと浮く。葵の虹彩が激しい収斂を繰り返す。体中の熱が流動体のように眼球に集まってくる。特殊能力を使う時の感覚に気付きながら葵にそれを止めるすべと意識はない。
「うるさい黙れぇえぇえッ!」
ゴ、ガァン!
固いものを蹴り飛ばした音にその場の空気の張りつめた糸が切れた。放置されて腐臭を放つ一斗缶を蹴り飛ばしたのは怜悧な風貌の男だ。調えられた濡れ羽色の短い髪。あらわな額は白く西洋人形のように鼻梁も通って美しい。確実に怒りを帯びた空気だがその怒りの熱でさえ男の魅力を損なわない。白磁のようにもろく見える皮膚は怒りで息づき、乳白色に揺らめいている。襟も釦もかっちりと留めて路地裏には不似合いな格好だ。靴先や裾が汚水で汚れている。だが気にもしないようで近づいてくる。
「それは俺の情人だ。乱暴しないでもらおう。実力次第こそ望むところだ身ぐるみ剥ぐから覚悟しろ」
「かずら」
一歩踏み出すたびにひりっと弾けるような闘気が揺れる。葛は相手の殲滅目的とした訓練を受けた人間だ。ゴロツキ程度が相手になるようなレベルではない。
「下種が。失せろ!」
葛の一喝に男も女も駆けだして消える。綺麗な容貌の激怒は苛烈だが美しい。がだその美しさは恐怖となって侵食してくる。雰囲気に圧される、などはいい例だ。
「かずら―、オレ、いつ、情人になったの…」
葛の平手打ちが炸裂した。手加減など一切ない。拳ではないのがせめてもの気遣いの様である。
「ずいぶん間抜けなことをしたものだな」
ぐうの音も出ない。通常の葵であれば引っかからない罠に引っかかったも同然だ。引いていた波のように今度はじわりじわりと耳鳴りがひどくなってくる。目眩までする。葛の姿が二重写しに見えた。座り込んだまま葵は壁に体を預けた。汚水や吐瀉物に浸るのも構わず座り込む。
「なぁ葛、耳の奥でずっと、ざぁざぁって音がするんだ」
葛はしばらく黙っている。耳を澄ましているようだ。小首を傾げるように肩から力を抜く。
「海が近い所為ではないのか。潮騒ではなく? …俺は音楽をたしなんだ経験が乏しいから何とも云えんが…」
「…うん、違う、と思う。…わかんないよね」
「今もまだ、するのか」
膝をついた葛の手がそっと葵の耳を覆った。瞬間、電撃に近い刺激が葵の爪先から脳天を駆け抜ける。理解した。
触れてくる葛の情報が、熱が、気持ちが、流れ込んでいる。同時に葵も堰を開いて葛に葵のありのままをさらしている。鎧もののない状態は無防備すぎる。その危険警告信号だ。葵と葛が互いに触れている部分こそわずかでも情報をさらけ出しているのだ。体が開いていく。熱を帯びる。
「…――だ、めだ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! 葛、ごめん、離れて、頼む、おね、がい…」
離れてと言って掴む腕から指先から、衣服を超えて熱が伝わってくるような気がした。葵は、体の感覚として、体が葛へ向けて流動し開いていくのを感じている。ひたりと、冷たい手が触れた。先刻、葛が平手打ちした頬だ。いたわるようにゆったりと撫でる。その動作には己の情報がわずかずつでも漏れているなどとは思っていないものだ。優しい。嬉しい。それが、痛い。
「あおい?」
「…――駄目だ、だめだ葛。やさしくなんかしないで、だってオレ達は」
いつ別れ別れになってしまうかもしれないのに
葵の耳の奥がぎりぎり痛んだ。危険信号。毀れる。葛に辛い思いをさせてしまうかも知れなくてそれは嫌だ、だから葵が毀れる。
「葵、顔を上げろ」
両頬へ添えるように手が触れる。冷たくて気持ちいい。葛は一概に体温が低い。
「俺とお前はいつ終わるかも判らない、明日にもどちらかは死んでしまうかもしれない。だけど、葵」
くるともしれない痛みに怯えて何もせずにいるなど俺には出来ない
守りに入るな、守ったら負ける。
砕ける覚悟を持って前進せよ。
「これが俺の教わってきたことだ。だからオレはこれに殉じて生きる心算だ。いつ来るかも判らないお前との別れに怯えて触れるのを止めたりしない。玉砕覚悟で挑めと俺は教わってきたつもりだ」
御大がためにこの身捨て捧げたまえ。葛は幼いころからそう教わってきた、だから誰かの犠牲になることにためらいはないと言った。
「お前が嫌ならば干渉はしない」
「…――…ち、がう、ちがうんだ」
不意に気付いた。情報漏洩の危険信号の対象は葵の内部へ向けてであった。
「オレは本当のオレをお前に見せるのが怖いんだ」
葛の手を振り払って膝を抱える。腕が耳をふさぎ、目も閉じる。痺れて痛むほどに強い力で折りたたんだ脚を抱き寄せ膝に額を押し付ける。閉じた目から涙があふれた。睫毛を濡らしてぽとぽととズボンへ沁みていく。
そのための警告だった。そんなにお前を見せて良いのか。お前の本質に失望される危険性がある。なにもしらないままでいいだろう。それらすべてが雑多に混じり合って耳の奥脳の根底でざらざらと砂を噛むように蠢いた。くしゃ、と髪をかき交ぜられる。よしよしと犬猫の仔を撫でるように葛は葵の頭を撫でた。
「馬鹿にしてんの」
「すまん、なんだか、嬉しかった」
ずず、と葵は洟をすすった。涙も洟も出放題で情けない有様だ。それでも葛はぎこちなく不慣れに、けれどとても美しく笑んだ。
「お前に触れていると、お前の熱が俺の中に入ってくる、それがすごく、嬉しい。心地いい」
葵の肉桂色の双眸が見開かれていく。集束する虹彩。潤みきった眼球からはぽたりと雫が垂れた。
「互いに偽りであることくらい承知の上だろう。そのうえで、俺はお前と言う人間が、好きだと、想っているよ」
葛が触れてくる指先から葛の熱や情報や感覚が流れ込んでくる。葛は自身の漏洩に固執していない。普段はむやみに堅牢なくせにいざという時の葛に躊躇はない。そんな潔さが好きだった。
「…なぁ葛。こー言うのってさ、アイシテルっていうのかな。偽りの身上なのに、アイシテイルって言っていいのかな」
葛は肩をすくめたがすぐにいつも通りの真面目な顔で返事をする。
「自覚しだいだろう。愛していると自覚すればそれはその時点で愛になるだろう」
葛の腕が膝を抱えて丸まる葵を抱擁した。
「笑って流せ。気にするな。沼に嵌まるぞ。俺達はそういう世界に、生きているんだ」
葵は葛を抱き押し倒した。胸部に耳をあてる。葛の鼓動が聞こえた。葛の鼓動と連動するように痺れて痛いような耳鳴りは収まっていく。痛みが引いていく。
「か、ずら。…かずらかずらかずらかずらかずらぁあぁああ」
泣いて叫ぶ葵を葛は好きにさせた。ちょっとした手違いの頻発から葛は葵の変異を悟っていた。情によるものだとは思っていなかったがこれで原因は判ったことになる。だが解決とまではいっていない。そして葛は結論を出すだけが能ではないと知っている。
汚水と吐瀉物と腐乱したごみや腐蝕した缶に囲まれて葛は葵を受け止めた。偽りの名で暮らす己にはふさわしいと思った。元来根が素直であろう葵が名を偽ることにどれほどの葛藤があったろうとは勝手な想像だ。だからせめてこうして泣かせてやることが葛に出来ることだと極めている。
己が名に呪いを乗せてお前は自由になればいい
葵は耳鳴りが止んでいることを泣き眠って目覚めてから気づいた。
《了》